日本人は辺境人

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

内田樹氏の「日本辺境論」を読んだ。

新型インフルエンザのワクチン騒動にせよ、医師数増加の議論にせよ、毎度おなじみなのが「国際比較」

何かを議論するときにまず比較から入るようなのがあまりに多く感じていたが、「日本人はそういう人たちなんだよ」と語ってくれている本である。

医師数なんて国々で事情が違うのに、「人口10万人あたり」とか単位だけ揃えた値しかみんな見ていなかった気がする。試算だったらもっと違う方法があるはず。試算したけれど表に出せなかったのか?
例えば、今の医者が全員労働基準法適応内で働くことを前提とした人数試算とかできるはず。なぜそれをしないのか?突っ込む人すらいなかったのかも。

p.35
他国との比較でしか自国を語れない
私たちは「日本はしかじかのものであらねばならない」という行為に準拠して国家像を形成するということをしません。できないのか、しないのか、それは次の問題として、私たちはひたすら他国との比較に熱中します。「よその国はこうこうであるが、わが国はこうこうである。だからわが国のありようはよその国を基準にして正されねばならない」という文型でしか、「概世の言」が語られない。
他国との比較を通じてしか自国のめざす国家像を描けない。国家戦略を語れない。そのような種類の主題について考えようとすると自動的に思考停止に陥ってしまう。これが日本人のきわだった国民正確です。

p.44
ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的付加体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以後「辺境人」と呼ぼうと思います。

p.51
「現実主義」の意味するところは現代も小早川秀秋の時代と変わりません。現実主義者は既成事実しか見ない。状況をおのれの発意によって変えることを彼らはしません。すでに起きてしまって、趨勢が決したことに同意する。彼らにとっての「現実」には「これから起きること」は含まれません。「すでに起きたこと」だけが現実なのです。丸山が言うとおり、わが国の現実主義者たちは、つねに「過去への繋縛の中に生きている」のです。