敬愛なるベートーヴェン

2006年末に見た映画だが感想とメモを…

http://www.daiku-movie.com/より

「1824年のウィーン、第九の初演4日前。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは(エド・ハリス)は、まだ合唱パートが完成してなかった。途方にくれていたベートーヴェン音楽出版社シュレンマー(ラルフ・ライアック)は、音楽学校にベートーヴェンのコピスト(写譜師:作曲家が書いた楽譜を清書する職業)として、一番優秀な生徒を依頼していた。そこに現れたのは作曲家を志す若き女性アンア・ホルツ(ダイアン・クルーガー)だったのだ。思いもよらない女性コピストの登場に、困惑するシュレンマー。これは、今回の仕事相手は「あの”野獣”ベートーヴェンだぞ」と告げ、アンナを追い返そうとするが、ベートーヴェンの名前を聞いたアンナは、期待のあまり目を輝かせてしまう。アンナはベートーヴェンを尊敬し、彼の音楽を愛していたのだ。早速アンナは、シュレンマーに代わって写譜をはじめ、出来上がった原稿を持ってベートーヴェンのアトリエを訪ねていく。
 期待に反し、女性のコピストがきたことに激怒するベートーヴェンは彼女の写譜した原稿を見るなり、音符の写し間違いを指摘する。そんなベートーヴェンに対し、「あなたなら、ここは長調にはしません。だから短調に修正したんです」ときっぱり言い切るアンナ。その一言で、ベートーヴェンには、アンナがただならぬ才能の持ち主であり、同時に自分の音楽を深く理解していることがわかった。「私の音楽をこれほど認めてくれるとは」と嫌味を言いながらも、彼はアンナの才能を認め写譜の仕事を任せることにした。
翌日からベートーヴェンの部屋に出入りするアンナは、”第九交響曲”の誕生に手を貸す喜びを味わうかたわら、尊敬する巨匠
の孤独な人生を垣間見ることになる。ベートーヴェンは、甥のカールを溺愛し、ピアニストにさせようとしていたが、才能のなさを自覚するカール(ジョー・アンダーソン)にとって、叔父の愛情と期待は重荷だったのだ。

 ついに迎えた”第九”初演の日。ドレスを身にまとい劇場へやって来たアンナは、婚約者のマルティンマシュー・グード)がよういした席に座ろうとしたとき、シュレンマーが現れる。アンナを舞台裏へと連れて行った彼は、指揮棒を振るベートーヴェンにテンポの合図を送る役目を、代わりにアンナに頼みたいと懇願する。そのアンナが舞台裏で見たのは、耳の不自由さで満足に指揮某を振れない不安と恐怖に駆られた、ベートーヴェンの姿だった。アンナは、そっと手をとり、「私がいます」と励まし、その言葉に勇気を取り戻したベートーヴェンは、アンナに楽譜を手渡してオーケストラの指揮台に立つ。そしてアンナは、ヴァイオリン奏者たちの後ろの足元にうずくまった。指揮棒を振り上げようとするベートーヴェンの目が、アンナの視線をとらえる。その目を力強く見返しながら、静かに合図を送るアンナ。こうして二人三脚の指揮による歴史に残る”第九”演奏が始まった。演奏が終盤になるにつれ、観客は”第九”の世界に魅了され、いつの間にか甥のカールまでもが現れ演奏に聞き入っていた。第4楽章「歓喜の歌」の演奏終了と共に鳴り響く拍手喝采の音。総立ちの観客、自然と涙する甥カール、劇場にこだまする大歓声。指揮やり終えたベートーヴェンに届いていないことに気づいたアンナは、指揮台のベートーヴェンを客席に振り向かせた。観客の熱狂ぶりを見て大喜びにベートーヴェンは、「2人でやり遂げた!」と、アンナに賞賛の言葉を贈る。
 その興奮がさめやらない翌日、ベートーヴェンに署名入りの”第九”の譜面を贈られ、感激するアンナ。そこで作曲した曲をベートーヴェンに見せるが、彼の無神経な反応に心を深く傷ついてアパートを飛び出してしまう。アンナの後ろ姿を見て、自分の過ちに気づいたベートーヴェンは、アンナの下宿先である修道院を訪ね、楽譜に「この曲を一緒に完成させよう」とメモを添えて許しを請うた。それ以来、アンナは、ベートーヴェンの指導の下で曲作りに没頭する。形式や構成にこだわり、作曲する彼女に、「曲は生き物だ。形を変える雲だ」と教えるベートーヴェン。心を無にし、魂で音を感じることの大切さを、学んでいくアンナに「君は私になりたがっている」と、ベートーヴェンはアンナへの苦言を呈していた。そんな中、”第九”に次いで完成した<大フーガ>の演奏会は、演奏の最中に聴衆が次々と席を立ち、最後まで残っていた大公にまでも「思っていたより耳が悪いんだな」と酷評され、さんざんな結果に終わってしまう。それを、「予想通りの結果だ」と強気に受け止めるベートーヴェンだったが、心労は思いのほか大きく、無人の客席に倒れてしまう。」

「第九」も「大フーガ」も斬新であったという点では変わりはないのだろう。でも万人に対する「受け」というのは結局のところ時代の流れにあんまり左右されないのではないか。
 ショスタコーヴィッチもいろいろ書いたが、ソビエト当局から認められたのは「単純、分かりやすい」ものだけだった。
 自分も旋律を歌ったりできる音楽が圧倒的に好印象であるというのはやむをえない事実なのだろう。大フーガを歌うのはしんどい。リズムも強烈だ。音程も難しい。バルトークの時代まで大フーガを超える斬新な弦楽四重奏曲がなかったという事実は、「大フーガ」を聞くたびに納得させられることでもある。
 
 この「敬愛なるベートーヴェン」では、第九だけでなく 「第九後」も大きく取り扱っており、映画製作者のベートーヴェンの音楽に対する造詣を感じさせる。一般に演奏会が行われる回数を比較すれば、後期弦楽四重奏曲は第九に比べると圧倒的に少なくファンも少ない。この映画は、「難しそうに見える」ベートーヴェンの世界を、聴衆に近づけるという仕事を為し得たのではないか?

大フーガについて→
http://www.basso-continuo.com/Midi/Stg_fuge/Stgf-j.htm

もう少し映画の細かい点についても今後触れられたらと思う。できるかな…?