リーダーシップ
何かをやるときに必要なもの。
リーダーシップは重要だと言われる。
指導者に求められる資質は、次の五つである。
知力。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。カエサルだけが、このすべてを持っていた。
塩野七生の著作より
イタリアの教科書にはこう書いてあるそうである。
日本のビジネス書みたいなのにはなんと書いてあるか?という問いかけは本の中でなされているが、一体日本にこういったテーゼはあっただろうか?
山形大の嘉山医学部長が、「リーダーシップっていうのは暴力でも何でもない、説得力ですよ!」といった。
ある一つのことでリーダーシップをとるには5つの要素のうちやはり説得力が一番意味をもつ。
ドラッカー先生の授業
- 作者: ウィリアム A コーン,有賀裕子
- 出版社/メーカー: 武田ランダムハウスジャパン
- 発売日: 2008/09/26
- メディア: 単行本
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p.130
たとえ自分のとった行動が道義面でも技術面で正しかったとしても、やはり上司の顔色を無視するわけにはいきません。
職を失う不安に目をつぶったら、もろに世間の荒波にさらされます。解雇される可能性を考えずにふるまったら、路頭に迷いかねませんよね。
(中略)
「もし職を失う不安を抱えているなら、その不安を拭い去りなさい。そうすれはこれまでよりも高い成果を発揮できるはずです。マネージャーにとって、それは道義的な責任でもあります」
官僚はそうそう職を失わないのだろうが、ドラッカー先生の「失職」を「左遷人事」という風に読み替えると、いくら優秀な官僚がいても、「無能化」されてしまうのはやむを得ないのではないか?左遷されたら優秀な能力を使える場にいない=その能力は死んだも同然、という状況にあったら、やっぱり上司には口答えできない。
結局システムエラーなんだろうか?優秀な人間が毎年ある組織に入っていったら、年をとった「上司」は頭がかたくて、プライドが高いっていうのはどうしようもないことなんだろうか?「上司の道義的責任」は幻想でしかないのだろうか?
ガバナンスとは情報開示だ!とは、小松秀樹医師がおっしゃったことのような気がするが、イメージとして
「自分のところの膿を出す、恥をさらす覚悟で、全体に膿・恥の部分を公表させる」
といった感じがある。
「やっぱ、お互いほどほどにしておこうよ」とは逆の方向に進むモチベーションをどうしたら持ちえるのか?
「同級生のよしみ」とかはこういった場合足かせになるだろう。覚悟を決めるのも、どこまで失うのを計算できるかで決まるだろう。
厚生労働省の木村盛世氏は、世間的に名前も知られるようになったし、影響力からして人事をいじる人も下手なことはできない状況、さらに これ以上左遷されないだろう(笑)状況にいることが、今の表だった医系技官バッシングであったり、健康局長バッシングだったりするのだろう。