精神科

精神科の教科書には、どう症状を記述するか、基本的面接の仕方、疾患の分類と用語の定義、疾患の疫学、療法についての記載で終わってしまう。
「どう患者と向き合うか」をある個人が記述したものは教科書には少ない。この病気は難治性だとかいうことはわかるのだが。
何でこういう概念があるのか?過去の研究者たちはどういう風にとらえたのか?といったことを知るには、誰かの著作を読まなくてはならない。
主観的体験やある人自身の分析は教授を退官した方などが多く書いていらっしゃるようである。

精神科においては、病気が人の生きる社会と大きく関係する。「昔はなかった」は、昔は存在しなかったのか、昔も同じようなことがあったけれど病気とみなされるようになったのか、などなど。

精神科医療が目指すもの―変転と不易の五〇年 (精神医学の知と技)

精神科医療が目指すもの―変転と不易の五〇年 (精神医学の知と技)

より抜粋。


精神科医療が目指すもの

憑依(ひょうい、possession)とは、霊などがのりうつること。

p.113
人類の過去に遡る。古代、人類には「神」が」存在した。この点は実は大問題だが、私は宗教者ではないので、深入りはしない。ただし、「

私」の自覚と、「死」の認識、これによる「不安」が大きな意味をもっただろうと考える。こうして、人間を超える存在、いわゆる「神」の

存在を信ずる人間には平安が訪れた。そして、古い過去の人類は、その超越的存在と深い関係をもつとき、恐らく、「憑依」という精神状態

をとったはずである、いわゆる「神がかり」とか、「神のお告げ」などだが、これには、いわゆる幻聴体験もあったであろう。これが悪性の

場合は、「悪魔つき」とか「狐つき」など、悪霊によって、魂が乗っ取られるという儀式をとったに違いない。そのように、本人も周囲の人

も信じていたはずである。ところが、近代になって、特にヨーロッパを中心に「主体性」をもった「個人」が生まれ、個人と個人の「契約」

の上で、経済活動や社会活動が展開されるようになる。


実は、ここには隠れた秘密がある。以上述べたことは、社会の成功者あるいは適応可能者に該当する事情である。いわば、生存競争における

覇者に該当する事態であって、当然これに失敗した生存競争の敗者、あるいは近代社会に適応できない、脱落者が出てきたであろう。
この適応失敗者、あるいは社会からの脱落者の、ひとつの典型例が精神分裂病者であり、統合失調症の発病者であると考えるl。このように

みてくると、精神分裂病とは近代文明、また自然科学を至上として文明を発展させてきた近代人の陥らざるを得なかった宿命だともいえよう

。精神医学史上、近代になり、この病気が医学界に登場する所以である。

p.120
夏目漱石のはなし


これは、明らかに被害関係妄想、追跡妄想の域に達している。
以上みてきたように、漱石が自らの不満を「神経衰弱」と自覚していたことは確かであるが、彼はこれを文学活動の原動力にしようと自覚的

であったことは驚きである。自覚しつつ、これから逃げないで、これを創造活動に生かそうとしたわけである。他方、鏡子は夫、漱石の言動

を異常なものとして取り、これを不審に思っていたが、漱石の弟子の見解とは違って、これを見守るだけで、精神科医に相談したことはある

が、敢えてこれを排除しようとしなかったこと、これも驚きに値するのではなかろうか。


p.160
いわば、統合失調者の場合は、別の世界に移ってしまい、そこでの体験に変容したのが、その病的体験なのである。そして、このような体験

は、自分にとって意味があり、自分を迫害しようとしていると直感される。「自分」は受け身であって、「他者」が自分に被害を及ぼそうと

していると、感ずる。普通、健常人の体験世界は、自分が中心であるが、統合失調者の体験世界では、「他者」が中心であり、、「自分
」はその影響下に置かれている。いわば、地動説と天動説の違いである。しかし、このたとえは非常に示唆的である。我々、人類は天動説を

信じていたし、実際、今でも日常的な体験として、太陽が東から上って、西に沈むと体験している。これは天動説である。地動説とは天文学

の観測結果による自然科学の知見なのである。このようにみてくると、健常人の体験が絶対正しくて、統合失調者の体験が絶対間違っている

という保証はどこにあるのだろうか。

p.161
そこで一寸、大昔に遡ってみよう。「自分」が中心で、外界に敵はいないと、いつも認識していたら、野獣の餌食になるだろう。かよわい、

初期の人類にとって、周囲は敵だらけという認識のほうが生き延びる確率は高かったであろう。こうみてくると、地動説的認識も、かつては

不思議でもなんでもなかったことになる。普段は天動説的様式が通用している。
ゆえに、我々の認識の奥には「地動説的」な統合失調症的様式があっても不思議ではない。ただ、ある時からこれは表にでなくなった。する

と、現代を生きているわれわれは、このような過去の遺物的認識が起こらないような操作が働いているという考え方もできよう。



p.162
統合失調症者」の場合は、一旦「あの世界」的認識をすると、なかなか「この世界」にかえってこられない。この往復可能か、それが困難

かの差異は非常に大きい。

p.163
また、統合失調症の発病については、人間として、「あの世界」へは容易にはいっていけないような、防護的備えができているはずである。

たとえば、疲れやすさとか、過眠傾向とか、悪夢をみやすいとか、これは統合失調症発病に対する警戒信号である。この時点でうまく対処で

きればその発病を防げるかもしれない。このあたりになると、精神医学的、そして臨床的な課題となる。すなわち、たとえば、疲労による発

病準備状態から、実際の発病の間には「閾」「バリアー」があるはずである。


p.192
不機嫌の時代
憂鬱の文学史

前者は志賀直哉永井荷風夏目漱石森鴎外などを挙げ、結論的に、これらの文学者、さらには、西欧文明に直面せざるを得なかった近代

日本の知識人は精神的に苦痛を強いられ、「不機嫌」であらざるを得なかったと述べる。また、後者では、佐藤春夫の「田園の憂鬱」という

文学作品を代表として取り上げながら、やはり、当時の文学者が「憂鬱」な心境にあった一種の必然性を説く。これが、近代西欧文明、さら

に急速い進んだ現在みられるアメリカ発の新自由主義経済の波に洗われ、精神的不満、それも変容した「うつ」に苦しめられている多くの日

本人の姿とだぶってみえてくる。
歴史的に振り替えると、江戸時代の末期、アメリカのペリーによって、無理矢理に開国せざるをなかった近代日本、そして巨大な国家アメリ

カと戦争をして完膚なきまでにたたきのめされた軍国日本、その後、経済成長を遂げた後、アメリカの跡を追いつつ、経済破綻し、不況にあ

えぐ現在の日本、このような国に生きる日本人の「消耗」し、「うつ」から抜け出せない、精神科臨床の場の近辺に漂う多くの人間が、実は

本論の対象なのである。
それでは、これらの、あるいは今後のうつ病の治療は如何にあるべきなのだろうか。これについて私見を記したい。
治療関係において、治療者は患者にとって、ななめの関係にある叔父のみでなく、縦の関係にある父と母を持ち込む必要性を思うのである。

あるいは、それらの役割を、治療者が演じ、患者に治療関係を通して、一種の疑似家族を体験しなおしてもらう。そして、新しい、束縛され

ない「自分」として、新しい人生を生きてくれるように、援助することにある。
なお、この際、人生には苦痛がないとか、人生は「バラ色」であるとかの幻想から醒めてもらう必要がある。極論すると、一個の人間として

「淋しさ」に耐えるたくましさを持ちながら、「自分の人生」を生きる喜びを味わえるような生き方の選択を、自らできるよう、そばに居続

けること、これこそが治療者の出来ることであり、そのようなあり方を自覚的に治療者は選び取る。

p.194
この「淋しさ」という言葉によって、夏目漱石が思い出される。近代人、あるいは、現代人は「淋しさ」を背負っているとは、漱石の言葉で

あった。病気の性質が変わろうと、精神科医療にあっては、この孤独の淋しさは避けて通れない。しかし、同時に、人間関係が支えになるこ

ともある。治療関係はその象徴である。ただし、かつての、古き良き時代と違って、新しい権威の像は、また新しい時代にふさわしい形をと

るのであろう。この問題解決の課題とは、今後に託された難問であるが、それは新しい世紀に対する光にもなりえよう。今後、模索の時代が

暫く続くであろうが、絶望ではなく、希望を捜すことが、また課題なのでもある。これは循環論のようにみえるかもしれないが、問題は、現

在、誰もが政界を持っていないことであり、治療者あるいは精神科医も捜すが、患者もともに自ら捜す姿勢が求められていよう。


p.239 BPD
しかし、この両者、患者に共感的であろうとすることと、患者によって翻弄されること、この二点は明らかに矛盾する。こうして、治療者は

一層、その心が引き裂かれるような思いを体験する。実は、この点にこそ、この境界性人格障害者に対する精神分析的精神療法の出発点があ

ある。故に、患者の味方になって、治療者が患者の親に対する攻撃心を同調しても、また逆に、親に同情して、家族を翻弄しては困らせる患

者を叱って、矯正しようとしても、それは全く治療に結び付かない。

p.247
そして、ここで大切な点は、問題にされるべきなのは、患者の病理性だけではなく。スタッフ自身あるいは治療チーム自体がそれまで隠し持

っていた一種の問題性や偏見も関係しているのであって、ここに気づき、この問題を自覚的に解決していく経過の中に、実は治療のカギが隠

されているということである。このような経過を通して新しい見方をもった治療チームによって、チームの信頼性を作り上げていく過程時代

境界性人格障害者の治療となる。
こうしてその治療とは、新しい人間関係の中で成長のやり直しをしていくことなのである。

p.254
すべての宗教行事には、細かい取り決めがあり、これを正確に執り行わなければならない。しかし、このような「強迫的」な取り決めがその

宗教儀式の中に取り入れられることによってこそ、恐らく人類は「不安」から逃れることのできる文化をつくったのだろう。宗教儀式とはま

さにこれにあたる。
このように、精神病理と文化の内容の関係は実に深い。現在の我が国社会に、精神病理現象が増えているのは、文化の発達しすぎもあるのだ

ろうが、これに該当する文化装置がまだ整備されていないという現実を暗に証明しているのかも知れない。精神病理、これは個人レベルだが

、集団を巻き込む、社会病理現象がる。これらの病理現象と文化、社会との関連は思いのほかに深いように思われるのである。以上の内容か

ら次へと進む。

p.265
しかし、人為的ミスによる自己は、右記のような大開発事業以外の分野でも結構起こっている。ここで、注目したいのは、現場の一人の人間

に課せられる責任の重さである。古い、ずっと昔と比較して、一人の人間に課せられている仕事上の責任が比べようもなく重くなったという

点である。これは非常に精神衛生にとってよくない。これを前置きして先へ進む、現代人はあまりにも高度に発達した文明社会の中で生きて

いるために、昔の人に比べ、著しい束縛を受けている現実を指摘したい。先述したところだが、時間の制限のみならず、あらゆる面で規則に

のることを強いられている。しかも、それに対して、ほとんど無自覚である。

p.266
このように、特に我が国の現代社会は、著しく律儀に動いている。こうなると、この手順に合わせるのがきついと感ずる人も出てこよう。す

なわち、ADHDやADDの事例化には、本人の問題もさることながら、日本人あるいは現代人の生活している空間や時間の仕組みが、著しく堅苦し

く、規則正しく動くようになったという時代状況も大いに関係していいよう。これが行き過ぎると、規格に当てはまらない人間は病的や発達

障害として、排除しようという風潮が働く恐れがある。近年のこれら学術用語の普及には、以上の発達しすぎた社会も関係しているだろう。

p.281
最近の社会病理現象の頻発は、現代科学を信じすぎ、技術革新は著しいが、人類が築き、引き継いできた文化の伝統を軽視しすぎている故で

はなかろうか。本書の筋道で語ると、我々は過去の文化をあまりにもあっさりと捨てて、新しい文明技術に飛びつきすぎてはいないか、
 個人の権利は大切だが、人類の進化を追ってきてわかったごとく、代々受け継がれてきた文化の伝統を無視しては、高等動物である人の基

本的条件を欠く。心身問題、心脳問題、統合失調症問題について理解しようとした試みのうちに、現代日本がその解決へと苦労している精神

病理や社会病理現象に対する解答の一端が見えてきたような気がする。

このような見方は私の勝手な思い込みだろうか。繰り返し強調してきたように、時代があまりにも変わりすぎた。最も問題なのは、この早す

ぎる変化によって、我々が失ったものがあまりにも多いにもかかわらず、我々がこの事実に無自覚なことである。まず、この事実のもつ大き

さに目覚めることが大切であろう。すべてはそこから出発するのではなかろうか。


神経症それぞれに関して詳細な記述がある。対処法に関しても踏み込んで書いてありよい。


精神療法の実際 (専門医のための精神科臨床リュミエール)

精神療法の実際 (専門医のための精神科臨床リュミエール)

p.179
精神科医の精神療法は、外科医の手術のようなものである!

精神科医のわきまえておくべいことについて書かれている。よい。